小説・漫画好きの感想ブログ

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「わたしはあかねこ」 感想

「わたしはあかねこ」 〜 絵本読んでますか? 〜 

 むかしむかし、僕は、学童保育の先生をしていた。
 学童保育というのは、小学校の低学年、地域によっては高学年の子供たちを授業修理後の放課後に夕方まで預かる施設のことだ。僕は、そこで子供たちの宿題を見たり、おやつを作ったり、遠足に連れて行ったり、ドッヂボールをしたり、ときには一緒にお昼寝をしたりを一時仕事にしていたことがある。
 当然、小さな子供たちが相手だから、子供達と一緒に何かをすることが多いし、子供たちはふとしたきっかけで喧嘩したり、泣きだしてしまったりすることがある。大人からみればささいなどうでもいいことや弾みでの喧嘩だったりするのだが、子供達にとってはそれは大問題で、いったん火がつくとなかなかおさまらない。表面上は収まっても、結構火種は燻っていたりする。そんな時に、子供達をいっぺんに仲直りさせるマジックアイテムが絵本だった。
 本棚から絵本を取り出してきて、子供達を前にちょっとした芝居っ気を出しながら絵本を読む。「ぐりどら」だったり「泣いた赤鬼」だったり、「三匹の子豚」だったり「白雪姫」のような童話だったりしたが、どれも子供たちは目を輝かして、次第に喧嘩したことすら忘れてお話を聴いてくれた。ときに、それは彼ら彼女らからしても、いくぶんと子供向けの話だった筈だが、それでも喜んでくれた。たぶん、忙しいお父さんお母さんの子供たちがほとんどだったから、家でそういう機会に恵まれることが少なかったんだろう。とても目を輝かせて聴いてくれた。

 時は移って一昨日、僕はとある女の子の誕生日パーティーで、絵本の朗読に今度は観客として遭遇することになった。誕生日を迎えた女の子に、現役の幼稚園の先生がプレゼントの絵本の朗読を始めたのだ。
 「わたしはあかねこ」というのが、その絵本のタイトルだった。
 要約すると、あらすじはこうだ。

 あるところで、赤い毛並みの仔猫「あかねこ」が生まれた。両親は白猫と黒猫で、その組み合わせからは本来は生まれてくるはずのない変わった色の仔猫だった。実際、そのときに一緒に生まれた兄弟姉妹たちは、黒猫、白猫、とら猫、ぶち猫と普通の猫たちだった。彼・彼女たち、お父さんお母さんたちは、彼女の色を気にして、心配したり、同情してばかり。
 灰をかぶったらどうだろう、白い粉をかぶったらどうだろう、泥につかったらどうだろうエトセトラエトセトラ。まわりはなんとかして、彼女を普通の色の猫にしようとした。そうでないとかわいそうだと思っていた。
 しかし、彼女は自分の毛の色のことなんて全く気にしてはいなかった。むしろ、その赤い色が大好きだった。人と違って個性的じゃないか、と。ある日、彼女はそんな家族のもとを出て、違う町で一匹の猫と知り合う。
 その彼がかけてくれた言葉に、その猫と一緒になったあかねこは、、、、。というお話だ。

 この後のオチは、絵本のことだら、ご想像通りにきちんと素敵なハッピーエンドを迎えていた。絵本の特性を生かして、カラフルで彩りに満ちた作品に仕上がっていた。
 最初は毛色の違う主人公の登場ということで、「醜いアヒルの子」のような話なのかなと思って聞いていたけれど、全然違うパターンで、むしろあの話よりよく出来ているお話だった。というよりは、醜いアヒルの子というお話は、結局のところ差別されていた子供が最終的には実は一番輝くのでしたという話であって、結局は「醜いアヒルの子が実は一番美しい白鳥の子供だった」というオチでなんのことはない美醜の価値を認めてしまうひどいお話のように僕には思えていた。だから、そういうパターンだったら嫌だなと思っていたのだが、そういう方向にはすすまず綺麗で素敵なオチがつくいいお話で個人的にはとても満足した。
 しかし、このお話のポイントは絵本の内容のそこではない。
 その絵本の朗読というのがなされた時間・空間がとても素敵だったことに僕は柄にもなく感動したし、気付きがあった。それは、いくつになっても絵本を聴くというシチュエーションが心地よいということだ。
 絵本なんてというと絵本に大変失礼だけれど、絵本の文章量なんていうものはたかが知れていて、普通に一人で読めば十分もかからないものばかりだ。それに、中には内容がそれほどないものも多い。語感や文字遊びや絵の変化で楽しむ作品も多い。けれど、それを読む、誰かが声に出して読むのを聴くというのは、とても心地よいことなんだと再認識した。
 絵本朗読の最初はいつだってガヤガヤとしている。ちょっとした雑談や、野次的な言葉、茶々をいれてくる子供、そういう場を先生が独特のしゃべりや、目線、仕草でおさえていく。そのあたりのテクニックについては先生同士のギルドでの秘密のスキル交換があるのだがその話はまたいずれの機会にか譲るとして、むしろその過程で場がまとまってゆく感じ、ガヤガヤがおさまって、無心に物語や絵、先生の声色を使った芝居っぽい語りをみんなが楽しむ雰囲気が徐々にできてきて、物語にみんなが一喜一憂してゆく。それが一昨日も再現されていた。
 二十代後半から五十代半ばまでの色々な人が、一緒に絵本の朗読を聞いている。その中心に座る、誕生日パーティーの主賓の二十歳になる女の子が座っている。しかも、バーのカウンターで。読み聞かせをきいているうちに、みんなが子供みたいな顔に戻っている。僕は、客席側でもなくさりとてキッチンでもない不思議な立ち位置でその輪の中にいた。考えてみれば不思議な空間であり光景だけれど、それはとても懐かしい光景だった。かつて自分がしていたこと、やっていたことを横側から眺めるとこんな感じだったのかな、あの時の子供たちは今どうしているんだろうなとか色んなことを考えながら見ていた。そういう目で見ていると、色んな記憶が一気に溢れてきたりもした。
 絵本というのは、ある意味で、過去への切符なのかも知れない。

  大人になると、特に子供が家にいないとなると、絵本を読むようなシチュエーションは一気に少なくなるけれど、絵本を読むというのはなかなか楽しいものだし、ある意味こういうのを楽しめるのも大人の特権かも知れない。
 子供はすぐには大人になれないけれど、大人はいつだって瞬間的にでも子供に帰れるのだから。


 今回はそんな素敵なことを思い出させてくれた、お誕生日主役の女の子と朗読してくれた先生に感謝の投稿です。皆さん絵本読んでますか?
  
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