小説・漫画好きの感想ブログ

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武田邦彦の「いわき市は福島県産の食材は学校給食からすべて排除せよ」提言に思う 

 こんばんは。
 この話、ずいぶんと長くなりそうなのですが、どうにも納得できない点が多いので、取り上げさせていただきたいと思います。前回ちょっと長文になってしまった、母乳からヨウ素が出たという話の真相同様に長くなりそうなので、ところどころ切りながらやりますね。
 あの問題は、実のところは、かなりイデオロギー的な要素がある方に恣意的に使われているということがわかって、本当の意味での継続調査の必要性がいい意味でも悪い意味でもかすんでしまったのは非常に残念な結果でした。今回取り上げる問題も、ある意味では結論が出る類の問題ではないかも知れませんし、ひょっとしたら考え方の相違、価値観の違いというものに集約されてしまう話かも知れません。
 ただ、僕はこういう考え方にはどうしても納得が出来ませんし、安全なところから風向きに有利な方について尻馬にのっているだけというような匂いがプンプンとするところに否定的な見解を持っています。
 と、前置きはこのくらいにして、今回僕が問題にしたいのは、武田邦彦さんという中部大学の大学教授が提言しているいくつかの提言の一部です。
 
長くなるのでたたみます
26日、中部大学教授の武田邦彦教授がいわき市の市長に対し、自身のブログでほうれん草や牛乳など福島県産の食材を給食に使用しないよう訴えている。その内容は以下の通り。

武田邦彦教授の訴え>
なぜ、市長は「いやがる子供に強制的に、イヤなものを食べさせる」ことができるのですか? こんな簡単な事がなぜ判らないのですか?
いわき市の給食に福島産の牛乳と食材が使われると聞きました。その理由としていわき市の市長さんは、「福島産の牛乳や食材は危険だという風評を払拭するため」と言われたようです。

質問に答えてください。市長は神ではありません。
前提は「給食に出されたら子供はどうしてもそれを食べなければならない、選ぶことができない」ということで、それがポイントです.

1. 福島の放射性物質は、なぜウシやホウレンソウを避けて落ちるのですか? 規制値以下でも汚染はされているのです。
2. 今、いわき市の子供達は少しでも被曝量を減らさなければならない時期です.その時期になぜ子供達の被曝量を増やそうとされるのですか? 1年間の被曝量を1ミリ以下にできますか?
3. 福島産の牛乳やホウレンソウが危険であるというのは科学的事実で、子供に食べさせても安全だというのが風評です. なぜ、大人の失敗を子供達に贖わせるのですか?
4. 日本の「法律」では1年に1ミリ以上の被ばくをさせることは禁止されていることをご存じですか?
5. 大人より地面に近いところで呼吸をする子供達の方がより多くの被ばくをすることをご存じですか?
6. その人の体に悪い影響をすることを「逃げられない人に強制する」ことはできないことをご存じですか?

すぐ、止めてください。
ここに2つの野菜があるとします。一つが「放射性物質は付いているが規制値以下の野菜」と、もう一つが「産地が遠くて汚染されていない野菜」です。
子供をもつ母親は迷うことなく汚染されていない野菜を買うでしょう. それなのに、汚染された野菜を給食にだすということは「絶対に子供に食べさせたくない親に強要することになる」ことが判りませんか?
そんな神様のような権利は市長でも首相でも持っていません。
放射性物質で汚染されている野菜を我が子に食べさせるのはイヤだと思う親の気持ちは間違っているかも知れませんが、だからといって市長の思想を強制することはできません.
市長が判断できることではないので、止めてください。放射線は怖くないという考えがあっても良いのですが、怖いという人になぜ強制するのですか。
すでに日本はそんな野蛮な国ではなく、個人のイヤなことを強制できる国ではないのです。

一読すると、子供のためを思っての提言に聞こえます。
 けれども、ここには大きな問題が三つあると僕は思います。

 一つには、別にいわき市の市長や大人、子供が無制限の選択の余地を持っているわけではないという前提をまったく無視しているということ。つまり、全員が好きなものを食べれる選択の権利を財力的にも物理的にも持っていないということ、勿論その中にはそこから避難できる力も含みます。
 二つには、原子力災害という実際の事態が起こっていることに対して適応するのではなく原則論をふりかざすことには何の意味もないこと。日本国憲法では人が人を殺すことは禁止されていますが、現実に連続通り魔事件が発生したりします。そのときに、法律で決められているのだから、それが起きないようにしなさい、といっても現実には不可能です。起きないように予防措置を取る、起きてから処罰することはできても、起きてしまったことについて起きることは法律で禁止されているというのは愚かしい論理です。
 三つには、武田邦彦教授はもともと「原発は絶対である」「100%事故や被害は発生しない」という原発推進論者だったのが、東日本大震災以降に、いつの間にやら、「原子力発電所の仕組みそのものは問題ないが人災であり防災対策を怠っていたことが問題」とする条件つき原発容認派となり、事故後二週間が経つ頃には、安全な原発なら推進するが危険なら推進しない、そういう普通の立場だったとトーンを180度変えてしまっている変節が甚だしい方で、それが自分のキャラクター変換のためにこの問題をていよく自分の保身に利用している節が見受けられるということ。
 特に、三つ目の点が、本当に被災者のことを考えるなら一番腹立たしい部分です。

 もう少し詳細に見ていくと、一番最初の点ですが、もちろん、いわき市の市長であれ親御さんたちにしろ、それが全く食べなくてもいいものであり、他から100%自由に食糧が調達できるのであれば、それも構わないでしょう。でも、現実にはそうではありません。そんな食糧はどこにもないし、東北や首都圏のすべての県がそれ以外のエリアからの食材だけで学校給食を作ることが出来るくらいなら、被災地や避難所でいまだにまともに食事ができないなんていう馬鹿げたことは解消されています。でも、現実にはそこまでまだ流通は完璧に動いていないし、ましてや、基準値以下で安全だとされているところが目の前にあり、同じ東北や首都圏にあるのに、わざわざ遠いところから取り寄せるということがどういう意味をもつのかをわからない人はいません。それをせよというのはあまりに傲慢だと思います。
 また、そういう選択肢が現実にあるとして、給食を廃止する、或いは生徒の親の申告によってそれぞれに給食費を分けて、選択制にさせるとして、それで他県からのものをいくらお金をだしてもやれるという家はいいとして、そうでない、実家も流された、着のみ着のままで逃げてきたような家庭の児童もいる中で、そういう選べない家との経済格差が生まれる中で、武田先生は「金もちの子は安全できれいな県外のものを食べ、貧乏で買えない子は汚染された福島のものを食べろ」というような事を実行せよというのでしょうか。武田教授のいうことをまともにやれば、結果的にはそういうことになるのですが、そういうのこそ、個人のイヤなことを強制するより、より酷い話なのではないでしょうか。子供達に限らず、全員が平等に自分たちの同郷の福島県民の作ったものを基準値を越えない範囲で一緒に頑張ろうと食べるのをやめさせて、福島県を捨てて逃げれる人は逃げろ、残るにしても、全員を平等に扱うなというのは、福島の内部の人々の気持ちをどう思っているのだろうかと思います。
 二つ目には、被曝量がより地表に低いところほど高いというのは確かに科学的に正しいし、確率論からして年が若ければ若いほど健康被害のリスクは高まります。それは事実です。しかし、だからといって、禁止されているのだから、そうならないように施策せよというのは無理難題をふっかけているだけです。これもさきほどの話同様に、では被曝させないようにしようとすればどうすればいいのかといえば、その地区にいないようにしなさい、もしくは学校の校庭などには出ずに、毎日のように校庭の地表を削って放射性物質の蓄積・累積を避けなければなりなくなりますが、今はそれどころではありません。そんなことをいわき市の各小学校・中学校・高校が毎日出来るくらいの余裕や体力や資材があろうはずもありません。できないことをやれというのは、ある意味イジメです。東電に対して、福島第一原発の放射能漏れに対して、それゃ誰だって「日本の法律では放射能漏れは禁止されています。放射能は出してはいけません。法律を知っていますか? 明日から1ミリたりとも空気中に放射能を出しては行けません。日本国民は全員放射能を嫌がっていますと唱えて、放射能が出ないのならいいですが、そんなことはもはや無理難題以外の何者でもありません。
 こういう時に大切なのは、ヒステリックに叫ぶことではなく、では問題解決に何が一番大事なのか、何を犠牲にしてそのかわり何を優先的に進めるか、そういう事を冷静に前向きに話し合うことです。決して、福島県民や被災地の農家や酪農家、漁業関係者のしていることをエゴと片付けずにどう助けて行くか考えることではないでしょうか。
 そういう意味では、少し論点がずれますが、一企業であるモスバーガーが、自分の店舗の食材に関してその地方産出のものでも検査をして問題なければ流通させ、公言していることには大変好感が持てるし、こういうことこそ復興への大人の支援だと思います。(個人的に言えば全然レベルが違いますが、自分が気仙沼の復興酒として角星酒造さんの船火灯などを購入するのもそういうことです。多少の被害が万が一出るかも知れないが同じ国民として痛みを分かち合ったり、なんとか支援しようというのが普通の人間だと思うんですがどうでしょうか)

 第三のことについては、以下にいくつか彼の発言を過去に渡って調べてみたものから列挙してみる。

■第7回 原子力安全基準・指針専門部会 速記録(平成19 年12月25日)
1つお願いというか、提案というほど大げさではないんですが、ちょっとお話しさせていただきます。
大変に長い間、日本の原子力発電所は、簡単に言うと、極めて安全に運転されてきた。多分、他のエネルギー産業の中でも、統計的な数字を細かく述べることはできないんですが、最も安全なエネルギー産業の1つではなかったか。そういう意味では、原子力安全委員会が大変正常に機能した数十年だったと評価できるのではないかと思うんですが、一方、新潟の地震による火災のときの国民の反応のように、ほとんどの国民は「原子力発電所は安全でない」と認識しているのではないかと危惧しているわけであります。
どういうことかというと、この前、この指針の部会のときにちょっと発言させていただいたんですが、否定されたりして余りうまくいかなかったんですが、「安全」という言葉が2つあるのではないか。1つはここで言っている安全というもので、フィジカルに安全であるというもの。それから、国民が言っている安全というのはその安全ではなくて、「安全である」という認識が安全である。もちろん、実態的に安全であることはもちろんなんですが、それが認識の段階になって初めて「安全である」と理解すべきであるというメッセージを、ここ数十年、発しているのではないかと思うんですね。
例えば、今度の火災が一番典型的な例だと思うんですが、幾ら原子炉が安全になっていると言っても、目の前の原子炉からもくもくと黒い煙が上がっていて「安全だから全然通報も要らないよ」例えばそういうことですと、それがいわゆる国民側から見て安全という状態になっているのかということになるのではないか。
それで、「安全」という用語の定義を変えたらどうか。もうこれ数十年になるのでね、国の方は安全だ、安全だと言っていて、確かに事実は安全なんですが、しかし、国民は不安だ、不安だと言っているのでは、もうこれは平行線でどうにもならない。従って、例えばこの基準とかそういうものも、その中に「安全だと思うこと」というのを指針の中に入れたらどうか。今までの指針は全部、フィジカルに安全であれば、もう「おまえらが知識ないから悪いんだ」というような言い方なんですが、そうも言えないのではないか。せっかく長く安全が保たれてきたにもかかわらず信頼されないというのは、やはり基本的なところを少し考え直して、もう一つ踏み込んだらどうかと思うんです。
今度、黒い煙がもくもく上がったというのは不幸中の幸いでありまして、これは不等沈下だとか附属装置の安全性を高めればいい、要するにフィジカルな安全性を高めればいいんだということではなくて、この現象を別の意味にとらえて、この機会に「安全」という概念を変えて、今後の指針とかそういうものをつくっていくチャンスではないかと思われますので、ご考慮いただければと思います。

これを読むと、武田氏は、原子力発電所というのは「事実は安全」なのだけど、「国民は安全でない」と思い込んで間違った認識している、という主張をしている。また「原子力安全委員会が大変正常に機能した数十年だったと評価できる」といういいかたをしているが、原子力安全委員会や東電、保安院のいい加減さ、適当さ、隠蔽体質は今回のことで日本国中の人間がよく分かっている事実で、実際問題として数日前の海外メディア向けの彼らの記者会見には、記者が全くいないという極めて異例な事態まで起きている。つまりは、彼らのいいかげんさは海外でも情けないことだが正しく評価されている。けれど、武田教授は彼らをこの時点では絶賛している。しかし、これが3/11以降になると、武田氏は、保安院が強い影響力をもったせいで安全委員会が十分に機能できなかった、というようなことを言い出している。無茶苦茶な話である。
 また別のケースではこんなことも過去に言っている。

武田邦彦 (中部大学): 原子力を考える (平成19年4月)
 爆発しない原子力発電所というと「軽水炉」である。水を使って燃料を冷やし、熱を取り出すこの簡単な原子炉は安全である。なぜ安全かというと「温度が上がると中性子を吸収する」という水の性質を利用しているからである。
 何かの間違いで原子炉が原爆のような状態になることがある。そうなると核反応が進み、ドンドン温度が上がる。そうすると水が中性子を吸収して反応を止める。つまり「自動安全装置」が水なのである。実に簡単で素晴らしい。よく水がそんな性質を持っていたものだ。
 水のおかげで人類は安全な原子炉を作ることができた。なぜ「安全」かというと、原理的に原子爆弾にならないということと、なんと言っても過去50年ほど、世界で動いてきた軽水炉は爆発状態にならなかったという実績である。


東海臨界事故もあれば、もんじゅの話もあったときですら、こういう原発擁護、安全だから推進ということを彼は言っていたわけである。
また放射能・放射性物質が出す放射線についても、こんな風に事故前には言っていた。
 

武田邦彦 (中部大学): インフルエンザとはなにか? (平成21年5月)
放射線の害を一言で言えば,「放射線で障害を受けることは,少ない.なかなか障害を受けることはできない」と言える。
そして,その理由を一言で言えば,「太陽が原子炉だから.宇宙は原子力ばかりだから」というのが正しいだろう。
さらに,注意することといえば,「普通の生活をする事」と言うことに尽きる.日本の原子炉はまだ自身で倒壊する可能性があるので,やや危ないが,そのほかで放射線の被害を受けることはまずない.
どうしてこんなに放射線が安全かというと,もともとは危険なので,防御機構が発達するからであり,なぜ防御機構が発達しているかというと太陽が原子炉で,そこから有害な放射線が降ってきた時代に,生物は頑丈な防御を作ったからである.
原始的な生物の一つ,大腸菌ですら放射線に対して5段階の防御を持っていて,容易にはやられない.まして高等動物中の高等動物である人間は,ものすごく精密な防御システムを持っている.
だから,容易なことでは放射線で障害を受けない.むしろ,あまりに複雑なので,長く使わないとリストラされる。むしろ,免疫と同じだから,少しは放射線を浴びておいた方が「異物を取り除く体の中の自衛隊」を育てておくことができる.
放射線と人体の関係を研究している人の多くが「放射線を少し浴びた方が発癌性が低い」と考えている。でも,決して口に出さない.口に出すと袋だたきにあうからだが,民主主義だから専門家はおそれずに「本当の事」を言うべきだ.

テレビなんかで歯切れよく強引に話をすすめる武田邦彦教授を見ても、人気が出る雰囲気というのは理解できるし、相手の話をぶんどってでも自分の意見をガンガンいえるああいうスタイルはある意味受けもいい。けれど、自分の変節・変化を全く総括しないで、現地の人々の気持ちを斟酌しない(ように僕には見受けられる)提言は、上記の三つの観点から僕は問題だと思う。
 蛇足ながらもう一つ付け加えるなら、このまま被曝地域が拡大した場合には、彼は最終的にはどういうつもりだろうか。関東・東北の食べ物は一切食べてはいけない。そこに住んでもいけない。日本国はいやがる人を無理にそこに住ませることは出来ないからだ。国はそうさせないようにしなければならない、、けれど移住先は? それを支える経済は? それこそ復興は? そういうのを考えたら、彼の主張は荒唐無稽というか空理空論でしかないだろう。
 勿論、そう思わないという人もいるだろうし、最初に言ったように、価値観・主観の違い、感覚の違いでは逆に自分みたいな考え方のほうが、酷いという話になるのかも知れないけれど。でも、少なくとも、自分は東北に移住してもあちらの復興に微力を尽くそうと思うし、健康被害があるにしても同じリスクを背負ってでも、何かをしたいという気持ちは少なくともある。なので、余計にこういう無神経な物言いには腹が立ったりもするのだ。


 追記:いわき市長が「風評被害払拭のために」わざわざすべての給食用食材を福島県内のものにあえて交換したというのは現時点では確認できないことのようです。市長が「風評被害を払拭するために県内の安全な野菜は食べよう」と呼びかけていることと、「給食用の牛乳として通常使われている福島県内の牛乳の放射線が基準値をしたまわり安全とされたので給食に出した」ことが混同された話のようです。