小説・漫画好きの感想ブログ

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「ルーガルー2」  京極夏彦著 感想

「ルーガルー2」  京極夏彦著 感想

 京極夏彦の最新刊です。
 特殊販売戦略をとっていて、ハードカバー、ノベルズ、文庫、電子書籍と四媒体で販売されています(一応、本文は今回は同一テキストとのことなので、前のように文庫版とノベルズ版で本文が違うとかいうことはありませんのでご安心を)。
 さて、内容のほうは京極夏彦にしては珍しく、ミステリであるだけでなく、SFです。近未来の人間と人間がリアルの現実でほとんど接触しない、動物というものが保護の対象で、食べ物はすべて合成食品でしかなくなり、お金というものが現実の貨幣として存在しなくなって電子マネーでしかなくなってしまったような時代。その社会で起こった連続殺人事件と、国家規模レベルの事件を、五人の女子学生が解決するというお話です。
 こう書くと、ものすごく荒唐無稽なお話のように聞こえて読む気が半減するかも知れませんが、なぜ彼女たちがそういう事件に巻き込まれたのか、主人公が何故少女であったのか、主人公をそういう年代の彼女たちにどうして設定したのか(萌え要素があった方が売れるとかいう話を別にして)、は小説を読みすすめていくうちに絶対に納得がいくでしょうし、そうした設定を行うことによって、この小説の裏側にある問いかけ社会的皮肉というものがよりわかりやすく伝わってくることに感嘆する筈です。
 この小説の作品世界においては、人々は過半数以上の割合でと、全員が全員、自分の殻に閉じこもっているし、人を数値データや通信データのデータの固まりとしてしかとらえていません。もちろん、肉親の情というものや個人間のつながりというものもないことはないのですが、原則的には人々は自発的にお互いに干渉することもリアルで会話をすることもなく、そういうコミュニケーションは訓練によって得るようになっています。極端な話、一生人と接触しない生き方すら可能になっています。仕事も在宅でできるし、テレビもCMも存在しません。野良犬や野良猫もいず、整然とした統一規格の家や道路が並ぶ町並みが広がり、町ごとに区切られています。
 そういう世界において、果たして人が人らしい感情を持てるのか、社会活動というものが行えるのか、いびつな社会にならずにすむのか、種としての存続が保たれるのか、そういう事がじわじわ読み手に対して投げかけられてきます。大上段から語られテーマになっているわけではないので、直接的に出てくることはないのですが、そういう社会が普通に営まれていることをリアルに想像するとうっすらと気持ち悪いものが漂ってきます。
 それも、想像出来なくて気持ち悪い、ではなくて、今の日本の姿を見ていたら、絶対にないとは言い切れないし、一部分は既にそうなっていることに対しての気持ち悪さが漂います。例えば、その社会の若い世代の間では、いわゆる友達というものが概念としてはあるもののリアルには普通には存在していません。相手の顔をまじまじと見ることもなければ連れ立って出かけるということもほとんどありませんし、手を握ることも普通はありません。端末によって、今どこに何時にいるかもわかるし、端末を見れば何の施設であるかもわかるので町には表示器すらありません。リアルで会う必要がほとんどないので、バイクや車といったものは存在していません。ごく一部特権階級用に移動機械というものがあるだけです。かつてはバイクや車もきちんとあったのですが、効率と、交通事故の多さやインフラの維持費の高さからなくなっています。そうしたちょっと静的なきちんと運営はされているものの清潔なゴーストタウンのようなものがこの世界の姿です。でも、本当にそれはあり得ない世界なのか、ひょっとしたらこのまま高齢化されていって菌を減らすことに血道を上げる我々はそういう世界に無意識に近づいて人としての何かを捨てているのではないか。そういう気持ち悪さを感じ取ってしまいます。
 ただ、そういうトーンがすべてを支配しているわけではなく、現在の我々のような暮らしをしている辺境区もあれば、主人公の少女たちはそういう世界を切り開いて協力しあい事件に立ち向かいます。その世界からすれば彼女らはあまりに異質であり得ない、存在そのものがタブーに触れることをしますが、しかしそれだけに我々の目からはその行動のすべてや戸惑い、怒り、悲しみ、笑いと感情の高ぶりがカタルシスにつながっていきます。そういう意味でこの小説はとてもバランスのとれたSFであり推理小説であり冒険小説でありビルディング小説です。
 長々と感想を書きましたが、前作「ルーガルー」が10年以上前に発表されたときよりも、この作品世界は今だからこそ想像しやすい世界になっているし、前作が実験小説として語らずにおいたでああろう裏設定が今作には存分に使われており、前作がある意味違う小説になるように語り直されています。
 最近は「京極堂シリーズ」にしろ「榎木津シリーズ」にしろ「巷説百物語シリーズ」にしろお見限りの作者ですが、こうした大作を見るとはやくそうしたものをまた書いて欲しくなります。