小説・漫画好きの感想ブログ

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「STEEL BALL RUN スティール・ボール・ラン 22巻」 荒木飛呂彦著 感想

 果たして、本当の大義の為であれば、殺人は許されるのか?
 果たして、物語の最後に、最大の敵が実は本当は正義の理念に燃える人物であるなんてことを信じられるのか?

最初の問いは難しい問題に見えて難しくないし、難しくない問題に見えて難しくなかったりもする。
 漫画の、特に少年ジャンプの漫画の主人公達は、敵が悪であれば相手を倒すし殺すこともしばしば。一応は、悪役のほうが容赦なく主人公側を殺すが、主人公側だって相手を殺す(まぁ作中では倒すというような曖昧な形になるが)。しかし、それは一般の世の中の常識ではない。ただただ漫画の中だから許されている行為だ。ただただ漫画だという前提があれば、主人公サイドであれば、その殺す方が悪を倒すという目的のためであれば、本当の正義を体現するものとして敵を倒す、殺すことは違和感がなく受け入れられる。考えてみればそれはずいぶんと不可思議な話であることに急に今日はあらためて思い当たった。
 というのも、この漫画のこの巻のラストで、敵方のラスボスであるアメリカ大統領がいきなり「自分は善を為す。その為には犠牲も出るし人も殺すが、それは本当の正義のために、この国の人々の幸せの為にあえてそうするのだ」というような事を言い出したときにものすごく違和感を覚えたからだ。読者は、このアメリカ大統領がおぞましいくらいの陰謀を巡らし、人を人とも思わぬようなやり方で殺し、前巻では主人公の友人をも激闘の末に殺し、キリストの遺骨を手にいれその力で世界を統べようとしているのを知っている。そこまででいえば、彼はまぎれもなく悪人で、敵であることには間違いがない。
 それが、いきなりそれらはすべてはアメリカ合衆国の大統領として、不幸をアメリカ国民に与えないため、すべての不幸から国民を守るためだといいだすのだ。普通であれば、それは一蹴される妄想であり、人を簡単に殺すような、陰謀を巡らすような人間が聖なる力を手に入れるなんてあり得ないし、納得できないとなる。しかし、これと同じことを多くの漫画の主人公側はしている。陰謀をもって仕掛けないだけの話で、敵を殲滅すること、倒すことに関しては同じようなことをする。
 となると、この違和感の原因は何だろうか?
 単に、思い入れの差? 正義の名の下にはどちらも許される?
 漫画なんだけれど、漫画とはちょっと離れてそんなことを考えてしまうスティール・ボール・ランの最新刊でした(名前を書き忘れていますが、ここに出てくるアメリカ大統領はこの作品の中だけの大統領で、決して、オバマ大統領であるとかそのパロディが出てくるようなことではありませんよ)。

STEEL BALL RUN スティール・ボール・ラン 22 (ジャンプコミックス)

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