小説・漫画好きの感想ブログ

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「三国志 巻の七」 宮城谷昌光著

 
 店頭には今ちょうどこの宮城谷昌光氏の「三国志」文庫版の1巻と2巻が並んでいますが、この七巻は最新刊になります。
 物語の位置としては、荊州劉備たちが占拠、劉備孫権が呉で会談し、孫権の妹を劉備が妻として迎えるあたりになります。三国志の場合は、特に正統派の場合は物語的な展開は知っている方が多いと思うので今回は所感というか感想にしぼって書かせていただきますが、この宮城谷三国志、自分は今のところ全然はまれていません。
 もともと三国志という話、物語は大好きで色々な方のバージョン(例えば吉川版、北方謙三版、漫画でも「蒼天航路」を筆頭にいろいろなバージョン)を好んで読んできました。そして、宮城谷昌光さんという方の書く話も大好きで「楽毅」や「晏子」など中国ものは全部読んできました。なので、絶対的にはまる要素しかないのにも関わらず、この宮城谷版の三国志には全然はまれないのです。
 で、今回いよいよその理由について気がついたのですが、基本的に二つの部分が自分には障害となっているんだと思います。一つ目は、今までの宮城谷氏の小説手法がこの物語とかみ合っていない事、三つ目には登場人物が「否定形で描かれる」事です。
 どういうことかといえば、前者は、今までの宮城谷氏の小説というのは常に主人公たちのさまざまな行跡の歴史的事実(エピソード)を積み重ねていき、その間々にキャラクターの肉付けをしていくという手法でした。読み手は、そこに主人公達の連続性を感じて、一緒に成長していくような感覚をもっていました。しばしば、宮城谷小説の主人公達は彼らが生まれる前や、少なくとも幼少期より描かれている事も多く、その感覚は強く共感されていたと思います。一人の人物がどんな少年時代を送り、どんな思想をもち、どんな試練を経て、どんな人間的成長をしていき、どんな風に自分の信念を、思想を世の中に体現していくのかを一緒にみていくという手法が取られていました。しかし、今回の場合は、主人公が一人ではないぶん、しかも主役級が大量にいるためにその手法がうまく機能せずに、どうしても、事実の羅列や、事件の確認だけになっているように思えます。
 原文からの引用と、その影のドラマチックな部分がお互いにひきたてあうのが彼の魅力だと思うのですが、それが今回はまったくといっていいほど機能していないように自分には感じられます。勿論、今までのようなパターンで書いていくとなると、三十巻くらいは余裕で巻数がかかってしまうので圧縮して文章を削いでいるのだとは思うのですが、中身に感情移入できないとやはり小説としては面白さが半減してしまうのではないでしょうか。
 また第二の理由。実はこちらのほうがひょっとしたら大きいのかも知れませんが、今までの宮城谷小説の主人公は、良く言えば英雄、好男子、天才たちでありながらも、性格的には優れた人物が多かったです。徳の高い人がほとんどでした。だから、ある意味、彼らを描いていく中で人生の指針に、理想像として成立していましたし、小説それ自体が手本書となってきていました。少なくとも自分にとっては、そういうものでした。しかし、この三国志においては、主人公達は、宮城谷さんの通常主人公に据えるような人格的な高みにある人物としては描かれていません。
 どちらかというと、人格的には卑しく、いい加減で、能力がないとまで描かれているときもあります(特に劉備)。主人公達が、宮城谷さんの手によって「好意的に」というか「時代を切り開いた英雄」としては描かれていません。むしろ人間としては人格は否定的に描かれている描写が多々出て来ています。それが乗れない原因だと思うのです。吉川英治版での高徳の劉備でなくても、北方版のような野心溢れる男としての劉備でも、蒼天航路のようなちゃらんぽらんだけれども器としてでかい男であるというだけでも構いません。でも、肯定型で、こんな男だったんだというのを強く出して描いて欲しかったです。悪い男であれば悪い男なりの美学を、利己的であればその利己的さのかげにあったドラマを、なにがしかの主人公に対する強い力というか想いを感じさせるような書き方をして欲しいなと思っています。
 ちょうど、文庫版が出たところなので、そのあたりも含めて順番に読み返してみたいなと思っていますが、自分の感想はそんなところです。他の宮城谷ファンのご意見、三国志ファンのご意見なども是非是非聞いてみたいものです。

三国志〈第7巻〉

三国志〈第7巻〉