小説・漫画好きの感想ブログ

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「グイン・サーガ123巻 風雲への序章」 栗本薫著

 偶数月のお楽しみ、グイン・サーガの新刊が今月も出ました。
 前巻のラストであまりにもあっさりとグインがシルヴィアを諦めた(人によっては、そうではないと分かった上ででも、あれは結局のところ放り投げたんだといわれても仕方がない逃げ方でした)ところで終わりましたが、今月はその後の顛末と、ひさかたぶりのイシュトヴァーンの登場巻でした。
 例によって例のごとく、ストーリーが展開しない、展開が遅いというツッコミがきそうな展開ではありましたが、シルヴィアのその後の顛末をシルヴィアが出る場面や彼女の台詞そのものを描かなかった点などでは多少昔のようにきちんと小説として話を進めるようになっているように感じました。ま、もっともその直後のイシュトヴァーンのシーンがやたらと冗舌で長台詞だったのでたまたまかも知れませんが。
 ただ、今回の巻で、タイトルや著者あとがきで語られるように、今後のストーリー展開が栗本薫版の「三国志」なのだとハッキリと明示されたことは個人的にはとても嬉しいことでした。当初予定通りといえばそれまでの事ですが、紆余曲折の物語だっただけに、どうなることかと危ぶんでいたのが当初予定通りとなって安心致しました。
 ただ、「序章」というのはあまりにあまり。御本人もあとがきでおっしゃっていましたが、どこの小説家が123巻、外伝までいれれば140巻もの小説を書いた上で「さぁ、今からが本筋です」というような事をするのだろうかと思います。まともにいくと、三国の興亡はあと数十巻は確実にかかるでしょうから、150巻までに話が完結すれば御の字といったところでしょうか。
 と、三国志にグイン世界をあてはめていくとなると、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀はどの国にあたるのでしょうねぇ。バロとゴーラとケイロニアという話ですが、位置的にいえばリンダのパロが蜀、グインのケイロニアが魏、イシュトヴァーンのゴーラが呉となりますが、どちらかというとイシュトヴァーンこそが曹操のようでもあります。グインが情緒的には劉備であるかのように。だから位置関係とか傾向は別に三つの国の三つどもえの戦いという風に理解するべきなのでしょうが、そうなってくるとパロがちょっとあまりに今の時点では弱すぎるので、あとあとでは何かが出てくるのでしょうか。かの国の有力なものといえば古代機械や魔導師ですが、それらも戦力としてはたいした事には使えないというのが分かってしまったし、このままではケイロニアとゴーラのみの戦いになっていくような。
 まぁ、それは先の楽しみとして、今回で気になったというか興味を引いたのがグインの対処。シルヴィアつきの女官達の処遇についてのことですが、確かにそれは王家の運営という観点からしたら普通のことかも知れないんだけれど、グインの処理としてはちょっと違和感がありました。戦場の相手に対しては命を奪うことを当然としても、こういうことでこうした果断な処置をするのは違和感がありました。グインに対してあまりにも聖人のような善人を自分は期待してしまっているのかも知れませんが、少し。もう一点は、イシュトヴァーンの屁理屈ながらも消えることのない上昇志向の中に見える清潔さへの志向。イシュトヴァーンが作るイシュタールであればこそ、立派でかっこよくて機能的で実務的なのはよしとして、そこに遊郭や賭場等をあえて作らない、できたとしてもあとで彼が処理しようと考えていることにも少し違和感がありました。彼の生まれや、性格からすれば、そういうものは表には出さないもののそのメリットは最大限使い切るようなイメージがあったのでここも違和感がありました。彼にとってのかっこよさや立派さとそれは共存できると思っていたので、彼がそういうことを言い出すのが違和感でした。単に王になることを求めていたときよりも、さらに上のものを目指して行こうとすることへの物語的な無理のない繋げ方はうまくいっていると思うんですけれど、もっと悪徳あるものをも飲み込む混沌の街をもよしとするからこそ、将来のミロク教徒とのぶつかりあいももっと際立つと思っていたのですが、そのあたりは自分がちょっと読み違えているかも知れません。
 まま、あれこれ書きましたが、基本的にはこの巻自体は、その方向性が再確認され、枠組みが再確認されたという一点をもって自分にとっては満足のいく一冊でした。
 

風雲への序章―グイン・サーガ〈123〉 (ハヤカワ文庫JA)

風雲への序章―グイン・サーガ〈123〉 (ハヤカワ文庫JA)


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