小説・漫画好きの感想ブログ

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あらすじ ネタバレ映画感想「スカイ・クロラ」

 率直に言って、評価がかなり別れる作品だと思います。
 べた褒めする人もいれば、酷評する人も出てくると思います。自分も、酷評とまではいかないし一定の評価はしますけれど、可もなく不可もなく、以上の評価ができません。悪くない映画だとは思いますが、積極的にお勧めするとは言えません。理由は、小説を映画化するときに行う演出の数々がどうにも自分が思うにはいまいち作品の本質と合っていない気がしたからです。
 ただ、あくまで、これは個人の感想なので、押井守のその演出がバッチリとはまっていたという人もいるかも知れません。というのも、その押井監督の演出は、原作を冒涜するような原作無視の改変ではなかったし、原作の「スカイ・クロラ」というちょっとわかりづらい部分もある物語を分かりやすくする為にした改変で、それをよしとする人もまたいるだろうと思うし、完全否定できるものではないからです。
 しかし、その物語を「分かりやすくする」という演出が自分にはどうにももともとの原作を考えた時にはマイナス要素になっていたような気がするのです。確かに、物語は「演出」によって、非常にわかりやすい、おさまりのいい、一つの物語として起承転結していました。SFとして、ミリタリーものとして、パイロットものとして、完成して破綻ない物語になっていました。
 例えば(以下ネタバレ含みます)

 演出として、原作と映画では大きく脇役キャラクターたちの設定の変更がありました。大きいのをいくつか挙げると、整備士の笹倉が女性になっていました。これは、映画の中で登場人物の口からいみじくも出てくるように「母」属性、女性属性の存在を基地に一人いれたかったからだろうと推測されるのですが、笹倉のもともとのキャラクターは、どちらかというとキルドレと通常人の間の架け橋、もしくはエンジニアとして突き詰めていけば結局はキルドレたちも人間も年を取るか取らないかの違いでしかないというような暗喩的な存在であったので、物語の軸としての女性属性が一人必要だったという「演出」は理解できますが、それを笹倉が司る必要があったのかというとどうだろうと思います。
 また、フーコという娼館の女性が登場しますが、このフーコは外観や性格などが大きく変わっています。原作のフーコは、どちらかというと元気系で、不幸な中にも夢見る少女的なところがあったり、勢いで突っ走ったり、時には恋の逃避行までやらかしたりと「動」の存在でした。しかし、映画版では、主人公を喰ってしまうほどの美貌と落ち着きをもった「静」の女性として描かれています。原作の観点でいえば、基地の近くに住まう娼婦たちは、主人公達「キルドレ」が永遠の子どもであり、成長しない、言い換えれば生々しい性を実のところもっていない存在であるのと対照的に、自分の性を自覚的に使っている過剰に生きている存在として対比的に置かれているところに小説の構成上の意味がありました。それが、今作のフーコでは全くの逆配置になりました。もっとも、今作の映画版での主人公の草薙水素キルドレであるにも関わらずかなり破滅衝動をもって生きていました(原作でもそういう描写は多々出てくるが、彼女でさえあくまで平常時は他のキルドレ同様に感情はフラットだし、そもそもは水素が一般のキルドレとは違う)から、そういう意味ではバランス的に辻褄はあっていますが、それでも、それならばそういう存在をわざわざフーコで代替しなくても、いっそ映画独立のオリジナルキャラでそれを描いたもよかったのではと思います。あえて、フーコにその役割をふっていることに違和感が拭えません。
 また、以上のようなキャラクター設定の変更でストーリーのバランスを「わかりやすく」する為以外にも、押井監督は物語の核心のカンナミ・ユーイチたちキルドレの設定と彼の謎を「わかりやすく」する為にウダガワにわかりやすい白髪と新聞を畳むという属性を与えています。これなどは決定的に、映画を見ている人にキルドレとは何なのか、彼らは本当はどんな存在でどんな風に使われていて本当は人間ですらないという核心部分をめちゃくちゃわかりやすい形で現したりもしています。マッチの演出もしかりです。
 自分は、このあたりの「わかりやすく」する演出がどうにも、演出過多で、何もかもを説明しつくそうとするかのような過剰なものとして感じてしまいました。確かに、「スカイ・クロラ」はファンの間でも長年、真実はなんなのか、本当はどんな物語なのか論争が起きたり推理合戦が起こる余地があるくらい、断片的な物語でした。だから、映画を一回見てきちんと理解してもらおうとするならば、確かに「わかりやすく」する為の演出があってもいいとは思いますし、そこを最重要に考えるならば、多々のキャラクター変更や演出はありと思います。
 ただ、それが原作の持ち味というか特徴とあっているのかというと、自分には疑問です。
 原作のイメージは誰にきいても、あの素晴らしい装丁の「空の世界」と、キルドレたちの空の上でのダンス以外はどちらでもなんでもいいという削ぎ落としたような価値観や感覚と、それと空気のように軽いタッチでのクールな透明感のある描写だと思うのです。いうなれば、わかりやすさなんて誰も求めていない世界、地上のごたごたなんて関係なく、ただただ空の上だけの戦いが全てだというキルドレたちの作り物めいた世界だと思うのです。尤も、その中で草薙水素だけがある意味どうしようもなく、そういうキルドレでありながらも、恋したり妊娠したりしがらみに巻き込まれて特殊な行き方を余儀なくされることの苦悩を持つ訳ですが、全般のトーンはそうだと思います。ある意味、物語を求めていないキルドレたちの物語が「スカイ・クロラ」だとも言えるでしょう。
 なのに、この映画版ではそういう透明さが失われて、きちんとした物語、むしろ悲劇の物語として「わかりやすい」物語にされてしまっていることが自分には違和感となりました。 
 それが端的に出たのが、死にたくなくて怯えるキルドレのシーンが出てしまったこと。キルドレは人間と同じような感覚は決して持っていない、自分たちの命にさえ大して執着がない、だからこその物語だったのに、必死で生きようとして死の恐怖におびえるシーンを描いてしまったのもそういう意味では「わかりやすさ」を追い求めるあまりに、失敗とは言わないまでもやりすぎた過剰演出だったと思います。
 さて。
 あとは、純粋に個人的な趣味というか嗜好の話になりますが、キャラクターデザインがどうしても最後まで馴染みがたかったです。おそらくは、戦闘機シーンの圧倒的な迫力とリアルさ、それとの対比で彼らの生が夢幻のごとく希薄であることの比喩としてもそうなったんだと思いますが、あのキャラクターの薄さと絵としての薄さは逆に勿体なかったかと思います。キャラクターの顔のデザインとかの薄さは最悪あれでいいとしても、戦闘服や軍服などはもうちょっとちゃんと描いて欲しかったです。あそこまで線を少なくしたから逆に手抜きとは絶対に思われないだろうけれど、もう少し描き込んだ方が良かったんじゃないかなぁと思います。ここは本当、好みですが。
 あと、これはキャラクターのデザインがどうとかじゃなくて、デッサンがたまにおかしかったりしたような気がします。意図的かどうかわからなかったんですが、シーンシーンによっては、妙に水素の頭とか顔が大きすぎて5頭身くらいになっていたりしていました。主人公のユーヒチと比べてもデッサンが変な気がしました。たぶん、これも彼らが子どもであることの演出の部分ではあったのかも知れませんが、それはそれできちんとキャラクター設定でいじって作中で頭身をデフォルメというわけでなく変えるのはどうかなと思いました。
 ということで、長々と感想と演出についての疑問符を書いて来ましたがか、最後でいいところも少しあげると、雲の上からの雲海の美しさや戦闘シーンの迫力は超一級でした。戦闘機のバトルシーンは今までのアニメの中ではダントツに群を抜いていると思います。ただ、リアルを追い求めすぎたせいか、、原作のもつ優雅さや華麗な舞いのような戦闘シーンには見えず、そこはちょっと残念でした。
 ・・・・書いていて思いましたが、結構不満足だったようです、個人的には。
演出とかでやりたいこともわかるし、方向性がちゃんと理解できるから、一定評価をしているけれども、好きか嫌いかでいえばもったいない作り方をしたなぁという意味であんまり気にいっていないみたいです。森博嗣の原作と比べると、どうしてもその良さとか真価を引き出せていないなぁと思います。トキノだけは生き生きとしてしていたけれど、あとは。。。
 世間的には、押井守の映画だから見るという人と、森博嗣原作だから見るという人とが半々くらいだと思うんだけれど、どうだろう、是非どっちものファンだから見たという人の意見もまた聞きたいです。あ、もちろん押井ファンや、森ファンの意見も。レビューを書くということで、「崖の上のポニョ」の時と同様に映画の公式サイトや他の人のレビューとかまだ全然読んでいないので。是非いろいろ聞きたいものです。